徳玄寺本堂内の一室には中学時代の宮澤賢治が下宿していました。
宮澤賢治(1896~1933)は、明治29年8月1日に岩手県花巻市に生まれました。
日本を代表する詩人であり、作家です。代表作品には『銀河鉄道の夜』・『風の又三郎』・『注文の多い料理店』・『雨ニモマケズ』等があります。幼少期から家族の影響(生家の菩提寺は真宗寺院)で仏教に親しんでいたようで、3歳の頃には真宗のお勤め『正信偈』や『白骨の御文』を暗唱できたようです。
賢治は1909年(明治42年)4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学し、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮しました。1913年(大正2年)1月、寮生活の中で、理由は定かではありませんが、舎監への排斥運動を起こし、賢治を含む4・5年生が全員寮を出されてしまいます。当初は寮生数人と盛岡市内の他寺院に下宿していたようですが、5月から一人だけ徳玄寺に下宿を移りました。生家の菩提寺と同宗派だったこともあるのかもしれません。そこから約一年間、徳玄寺で生活を送ります。下宿部屋は本堂にある一室で、襖一枚しか隔てるものがない部屋です。
おそらく当時の住職が勤める読経を毎日聞いていたのでしょう。たくさんの文学書、宗教書を読み、夜になれば本堂の縁側で月光をあびながら物思いにふけったそうです。この学生時代の仏教とのふれあいは、その後の賢治の生涯をつらぬく本源となりました。
また『疑獄元兇(ぎごくげんきょう)』という短編の中には、「建仁寺、いや、徳玄寺、いけない、さうだ 清源寺!」と、学生時代に下宿した徳玄寺の名を使用しています。
宮澤賢治が葛藤する学生時代を過ごした部屋は、ご希望の方にご覧いただいております。
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